¶ 度重なる焼失
何度も、江戸城は焼失しています。寛永16年(1639年)、明暦3年(1657年)、天保15年(1844年)、安政6年(1859年)に焼失し、その都度再建されています。本当に江戸の町は、火事が多かった事が伺い知れます。広い場所に作られた江戸城であっても火事にはかなわなかったのですね。また、文久3年(1863年)に焼失した時は、幕末の混乱期で、再建される事はありませんでした。
¶ 3つの天守
江戸時代の天守は、意外なことに1607年から50年の間しか存在していません。建て替えられて、その間3つの天守がありました。
最初の天守は、慶長12年(1607年)に2代目の将軍の秀忠の時代に建てられました。しかし、その頃はまだ大御所として家康が駿府より政治を支配していましたので、家康の設計だったと思われます。
家康の死後、2代目の天守は、元和9年(1623年)に、秀忠自身によって建て替えられました。それにしても秀忠は、天守にこだわっていたのですね。徳川の権威を知らしめるためとも考えられますが、実父の家康へのコンプレックスの現れで、天守を建て替えたかったのかも知れません。
次の将軍の家光は、自分の将軍職に反対していた実父の秀忠が嫌っており、祖父の家康の方を非常に尊敬していたようです。従って、秀忠の天守は相いれないものがあったのかも知れません。秀忠の死後、すぐに解体させ、寛永15年(1638年)に3代目の天守を築いています。この天守は、5層の地上5階、地下1階で、石垣と合わせた高さは、58メートル強あったと言われています。58メートルだと15階建てのビルと同じくらいの高さですので、その頃の建物としては突出して高い建物でした。江戸の町からのあちこちから富士山と肩を並べるように見えたのでしょう。
¶ 天守の最後
三代目の天守も明暦3年(1657年)の「明暦の大火(振り袖火事)」で焼失します。その後、万治元年(1658年)に天守台の石垣が完成します。ただ、家綱の将軍補佐役であった保科正之が、「天守は城の守りには不要であり、ただ展望のみを行う無用の長物」と進言した事により、天守の再建は中止となりました。以降、現在に至るまで再建されていません。