• 江戸を学び、江戸で遊ぼう

    江戸時代、人生の全てを賭けて星を読み、 日本独自の暦作成に果敢に挑んだ男たちがいました。 今日はその最初の男「渋川春海」の物語です。


    日食
    日食の瞬間

    江戸以前の暦


    江戸以前の暦は、 800年以上も前に中国から輸入されたとても古い暦の宣明暦( せんみょうれき)というものが使われていました。また、 この暦は、天皇の庇護のもと、安倍晴明から始まる土御門家( つちみかどけ)の世襲となっており、 ほとんど手が加えられることなく、そのまま使われていました。ただ、敢えて変えなかったと言うより、その頃の日本では、 精密な暦の計算が出来る者がいなかったというのが、実情のようですが…従って、 実際の天体活動と暦との間には少しづつ誤差が生じていきました。 最終的にその誤差はおよそ2日ほどになったと言われています。


    江戸時代初期の暦


    江戸時代となっても、この宣明暦はそのまま使われ続けました。 この時代の暦は「太陰太陽暦」と呼ばれる新月( 月が真っ暗になっている状態)の日が1日(ついたち)となる暦でした。日食は太陽、月、地球が一直線に並んだ時、月が太陽の光を遮る現象です。従って、 日食が1日に起こる暦が正しい暦ということになります。 逆に月食は地球の影に月が隠れる状態なので必ず満月の時に発生し ます。食は忌み嫌われた現象ですが、これを正しく予測することは、天下を司る権力者としての権威を示す絶好の機会でした。逆に言うと、これが外れるということは、幕府としても権威が保てず、せっかく政治が安定してきた三代将軍の家光と次の将軍の家綱の補佐役だった保科正之は何とかしなければと考えていました。そして、白羽の矢を立てたのが安井算哲こと渋川春海でした。


    映画「天地明察」


    渋川春海(はるみ、しゅんかい)は、 V6の岡田さんが主演で映画化された「天地明察」 で一挙に有名になりましたので、知っている方も結構いるのではと思います。 それにしてもこの映画面白かったです。特に、笹野高史さんが演じる竹部伝内は良かったですね〜。主人公は、「北極出地」という北極星の角度を行脚しながら調べて回る旅に同行するのですが、その時の上役です。年老いても好奇心旺盛で、謙虚でもあり、後進を暖かく見守り、辛い仕事でも楽しく前向きな姿勢、本当に見習いたいものだと思いました。まだの方は、機会があれば、是非ご覧になってください。お勧めの映画です。


    国産初のカレンダー


    渋川春海
    渋川春海

    話を戻します。春海は、寛永16年閏11月3日(1639年) に、安井算哲(やすいさんてつ)の子供として京都で生まれました。父の算哲は将軍の前で対局する御城碁を披露したりする、幕府に碁で仕える碁指南役でした。春海は、この手の方の御多分に洩れず、幼い頃から神童と呼ばれ、 碁の実力も父を凌ぐほどの腕前だったと言われています。算哲の死期、春海は2代目安井算哲を名乗り、秋冬は江戸で幕府に碁で仕え、春夏は京に帰り、勉学に勤しんでいました。特に天文に関しては、松田順承 、岡野井玄貞や土御門泰福から熱心に学んでいたようです。また、春海の知識や才能を知った水戸光圀や保科正之などの幕府方の重鎮から招かれ、教えを請われていたようです。

    その頃の暦は、前述したように、古い宣明暦を使っていましたので、 度々食の予測が外れていました。その頃、将軍の補佐役だった保科正之は、これを何とかしたいと常々考えておりました。後々、この保科正之の遺言により、春海は改暦の任を担うこととなります。一方、その頃、 中国では古い宣明暦はとっくに捨てられて、授時暦や大統暦という新しく正確な暦が使われていました。そこで、延宝元年(1673年)、春海は授時暦を元に日本独自の暦を作り、「大和暦」 として天皇へ上奏します。そして、3年に渡り、6回の日月食について、宣明暦、大統暦と予測を並べ、正しさを実証することにしました。残すところ最後の1つまでは、授時暦の勝ちとなり、その正しさを検証できたかに見えました。そして、 いよいよ最後の予測の延宝3年5月1日(1675年)となりました。宣明暦では食が起き、春海の大和暦では起きないと予測されていました。ところが、大和暦が外れて、宣明暦が当たってしまいます。映画にもありましたが、本当にドラマチックな展開ですね。結局、どちらが正しいとも言えず、今まで通りの授時暦が採用されてしまいます。


    2度目のチャレンジ


    普通の人だったらここで挫けてしまうのでしょうが、 春海は違いました。さまざまな計測、検証を重ねた上で、 その原因を探ったのです。そして、2つの理由にたどり着きました。その1つが、中国と日本の経度差でした。授時暦は、中国の経度を基準に作られていましたので、日本とは当然経度差があり、その分誤差が発生します。2つ目の理由は、近日点の移動です。地球の軌道は、楕円で、その楕円軌道そのものも他の惑星の重力の影響で少しづつずれてい く事を近日点の移動と言います。渋川春海はこの近日点の移動を計算に取り入れて、精度を高めました。そして、京に登り、親交が深く師でもあった土御門泰福の協力も得て、最後の計測をして仕上げ、満を持し再度上奏します。天和3年11月6日(1683年)のことでした。ところが翌年の貞享元年3月3日(1684年)に下された判断は、またも不採用、しかも明朝で作られた大統暦を使うという判断でした。まさに晴天の霹靂的な出来事でした。さすがの春海も今度は怒って江戸に帰ろうとします。


    大どんでん返し


    貞享暦
    貞享暦

    しかし、土御門泰福は、 そんな春海に何とか思い留まるよう説得します。そして、さまざまな権力者へ熱心に説いて回りました。一方、春海も今一度決心し、観測を続けました。結果的にはこれらが功を奏して、同年の貞享元年10月29日(1684年)に晴れて正式に採用されます。そして、正式な名称は「貞享暦」となり、貞享2年(1685年)から施行されることとなりました。

    この功により、春海は貞享元年12月1日(1685年)に初代幕府天文方として、250石をもって任ぜられました。また、この時、碁方は辞しています。以降、渋川家は、幕末まで天文方として世襲されることになります。但し、その道のりは、平坦ではなく、大変厳しいものでした。 春海以降に優れた天文方は、なかなか輩出できませんでした。ただ、江戸末期、偶然か必然か、渋川家の名前が暦作成において、再度燦然と輝くことになります。それはまた別の機会に話すことにしましょう。


     


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