• 江戸を学び、江戸で遊ぼう

    江戸城の始まりと終わり

    太田道灌が康正3年(1457年)に築城したのが、江戸城の始まりとされています。
    徳川家康は、天正18年8月1日(1590年8月30日)に初めて入城しました。以降この日は、八朔(はっさく、八月の朔日の略、朔日とは一日の事)と呼ばれ、江戸幕府では、正月に次ぐ祝日とされていました。そして、家康が征夷大将軍に任じられた慶長8年2月12日(1603年3月24日)から、明治政府に明け渡す江戸城開城の慶応4年4月11日(1868年5月3日)までの265年間、江戸幕府の将軍の居城とされていました。

    家康はなぜ江戸を選んだのか

    家康が入城した頃の江戸は、「そこもかしこも汐入の茅原」と言われるほどの寒村だったようです。また、江戸城も茅葺で雨漏りがするような酷い有様だったと言われています。小田原城開城の後、秀吉から関八州(現在の関東地方)を治めるように言われた家康は、そのまま小田原城を居城とするのが自然な流れでした。ところが、家康は、わざわざ、茅ばかりが生い茂るような江戸を選びました。なぜでしょう。実は、そんなに酷くなかった後世話を大袈裟にしたなどの色々な説がありますが、私は、自分の理想とする都市を一から作りたかったからではないかなと思います。始めて江戸城に入城する際に家康は白帷子長裃(しろかたびらながかみしも)の出で立ちだったと言われています。このエピソードでも、家康のその決意のほどが分かるような気がしますね。

    江戸城の拡張

    江戸城は、表(幕府の政務および将軍の御座所である中奥)と奥(大奥)があった本丸。そして東側に二の丸、三の丸。南側に西の丸と吹上、北西に北の丸を配していました。本丸の広さは表が4688坪、奥が6318坪で合計すると東京ドーム0.8個分の広さがあったという事です。また、敷地の広さは、幕末時だと内郭と呼ばれる部分だけでも30万6760坪(東京ドーム21.7個分)も有り、日本国内で最大の城でした。
    江戸時代の間、江戸城は、譜代の家臣や大名の普請(※1)による増改築や火災による立て直しが繰り返し行われています。
    家康が入城した後、まず城の整備が行われました。ただ、この時は応急処置的なもので、本格的には、慶長11年(1606年)から開始されます。築城の名手とよばれた藤堂高虎が基本設計をした言われています。また、この頃は、既に二代将軍の秀忠の時代でしたが、家康が殆ど口を出して最終決定していたようです。(※2)
     その後、二代将軍秀忠の改築、三代将軍家光の改築や外郭工事などにより、寛永14年(1637年)に江戸城の普請は完成しました。

    ※1:普請とは

    元々は禅宗のお寺で、普く(あねく)請う(こう)と、上下に関係なくすべての僧が作務労役に従事することを言いました。転じて建築に用いられるようになりました。

    ※2:初期江戸城の最古級絵図見つかる 松江市

    なんと、2017年の正月にビッグニュースが入ってきました。
    http://mainichi.jp/articles/20170208/k00/00e/040/333000c


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