• 江戸を学び、江戸で遊ぼう

    江戸後期にからくり人形の職人として人々を驚かせ、その後、明治にかけ次々と発明を行い、人々の生活を変えていった人物がいます。「江戸の疾風」の最終回は、「からくり儀右衛門(ぎえもん)」と呼ばれた田中久重(たなか ひさしげ)の話です。



    からくり儀右衛門の誕生


    久重は、寛政11年(1799年)に、筑後国久留米(現在の福岡県久留米市)で、鼈甲細工の職人の家の長男として生まれました。幼少の頃から、才能を発揮し、「開かずの硯箱(すずりばこ)」を作って、同じ寺子屋に通っていた子供たちを驚かせます。誰が試してみてもその硯箱は、全く開きません。ところが、久重がやってみせると、いとも簡単に開きます。少し捻って開けると、開くよう作っていたのです。これが、9才の頃だと言うので驚きです。また、久重が生まれ育った町では、五穀神社の祭礼の時に、からくり人形を動かして楽しむのが流行っていました。久重は、寝る間を惜しんで製作に没頭したと言われています。そして、久重が25才の時、家督を弟に譲り、人形興行師として、郷里を後にします。そして、その行動範囲を大阪、京都、江戸と広げていきます。彼の幼名は儀右衛門というのですが、やがて世間からは、からくり儀右衛門と呼ばれ、全国的に有名になっていきます。


    世間を驚かせたからくり人形


    からくり儀右衛門の傑作は、今でも「茶酌娘(ちゃくみむすめ)」、「文字書き人形」、そして「弓曳き童子(ゆみひきどうじ)」などが残されています。
    「茶酌娘」は、よくある茶運び人形と同じく、お茶を入れた茶碗をお客まで運び、お客が飲み終わった後、踵を返して帰っていくよう作られた人形です。ただ、通常の物は客がお茶碗を取らないと止まらないのに対し、久重の物は、客の手前で自動的に止まるよう工夫されていました。
    「文字書き人形」は、筆を使い、「寿」「松」「竹」「梅」の4文字を次々と書いていくからくり人形です。とめ、はね、はらいもしっかり再現され、腕の動きに連動して顔も動き、人間が文字を書く時のような視線を再現した凝った作りです。まるで生きているかのように、見事な出来栄えでした。
    「弓曳き童子」は、矢を手にし、次に弓に番え、矢を放つ一連の動作を行うように作られていました。しかも4本の矢を次々に放ち、的に当てていく驚異的な構造でした。「文字書き人形」と並び、江戸時代のからくり人形の最高峰とされ、世界的にも有名です。また、久重の作った人形は、どれも豪華な装飾が施されており、美術品としても1級の物でした。


    発明家としての久重


    天保5年(1834年)、久重は、からくり人形の興行師としての旅を終え、大坂の船場の伏見町(大阪市中央区伏見町)に落ち着きます。久重が、36才の時でした。その年、久重は、「懐中燭台」を発明します。通常の燭台と異なり、折りたたみ式になっていて、携帯し易い形状でした。長い間、旅を続けて、その必要性から思いついたものと考えられます。また、当時、日本人が使っていた行灯(あんどん)は、蝋燭より安価なエネルギー源として菜種油が使われていましたが、非常に暗く、使い勝手の悪いものでした。ここでも久重は、天保8年(1837年)、圧縮空気により菜種油を補給することにより、非常に明るく長持ちする明かりを発明します。そして、一度、火を灯すと、昇降循環することにより、菜種油が切れるまでは、休むことなく明るさを保つことが出来ることから「無尽灯」と名付けました。そう言えば、あのドラマにもなった村上もとかの漫画「仁-jin-」で、長崎での主人公の手術の時、久重が持参したこの「無尽灯」が使わていましたね。久重は、その後、京都に移り、「機巧(からくり)堂」という店を構えます。そして、今後は、時計作りに挑戦します。当時の日本の時刻は、不定時法と言って、季節により異なる昼夜の長さをその季節に合わせ均等に分割して時を表す方法でした。久重は、この不定時法に対応した正確な時計を作るには、天文学の知識や蘭学の知識が必要と思い立ちます。そして、弘化4年(1847年)、49才の頃に天文学の権威の土御門家に50両(今の価値で500万円ほど)で入門します。また、蘭学者の廣瀨元恭(ひろせ げんきょう)が営む「時習堂(じしゅうどう)」へも入門し、様々な知識を貪欲に身に着けていきます。そして、季節で異なる昼夜の時刻の長さを文字盤の間隔を自動で調整することにより再現した「万年自鳴鐘」を完成させます。これは虫歯車というカブト虫のような形をした独創的な歯車に、互い違いに2枚の片歯車を組み合わせて歯車が回転往復運動をすることで、文字盤上の時間の間隔を調整する驚異的な構造でした。


    蒸気船や蒸気機関車も


    嘉永6年(1853年)のペリーの黒船来航を契機に、久重は、西洋と比較すると大幅に遅れていることを痛感し、国防技術に力を入れ始めます。そして、ちょうどその時、肥前国の佐賀藩から招かれ、日本初の蒸気船や蒸気機関車の模型を製造したり、反射炉(溶鉱炉)の設計も行ったりします。また、当時の大砲としては軽量で充填時間が非常に短く最新式だったアームストロング砲(大砲)などの製造も行いました。文久3年(1863年)には、国内初の蒸気船「凌風丸」建造の中心メンバーとして活躍します。元治元年(1864年)なると今度は、久留米に帰り、久留米藩の軍艦購入や小銃の製作などに携わりました。


    明治維新後の久重


    明治維新後の久重は、国防から一転、人々の生活に目を向け、製氷機械や自転車、人力車、精米機などの開発を行います。そんな中、明治6年(1873年)、久留米にいた久重は、明治政府から電信事業への協力を求められ、首都東京へ上京します。75才の時でした。明治8年(1875年)、久重は東京・銀座に「田中製造所」という名前の工場兼店舗を構えました。そして、「万般(全て)の機械考案の依頼に応ず」との看板を掲げます。そこで、電話機を試作したり、日本全国に時報を伝える「報時機」などを生み出しました。


    あの会社の創業者


    久重は、明治14年(1881年)の1月に83歳で亡くなりました。生前、自身の信条として次のように言っていました。「知識は失敗より学ぶ。事を成就するには、志があり、忍耐があり、勇気があり、失敗があり、その後に、成就があるのである」と。これは、あのエジソンの言葉にも通じるところがある発明することの苦しみや喜びを知っている者だけが言える含蓄のある言葉ですね。
    久重が設立した「田中製造所」は2代目の田中大吉の時、芝浦に転居し、「芝浦製作所」という名前に変わります。そして、後に「東京電気」と合併し、「東京芝浦電気」となり、現在の「東芝」の母体となりました。東芝はその後、ご存知の通り日本を代表する企業の一角を担って行きますが、2017年現在、さまざまな問題で大揺れに揺れています。ただ、今こそ、久重の言葉を思い出し、「志と忍耐と勇気」を持って挽回していくように、135年も昔の世界から久重も祈っているに違いありません。


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