• 江戸を学び、江戸で遊ぼう

    伊能図と呼ばれる日本地図は、伊能忠敬(いのう ただたか)により、測量、製作されたものとして有名です。でも、実はあの樺太で間宮海峡を発見した探検家、間宮林蔵(まみや りんぞう)がその完成に大きく寄与したことはあまり知られていません。
    今回は、紀元前7世紀頃、発見されたマグネシアの石が、その後、2000年近くを経て、杖先羅針(つえさきらしん)という方位磁石に形を変え、間宮林蔵の蝦夷地(北海道)踏破、地図製作に使われていったお話です。


    伊能忠敬との出会い


    間宮林蔵
    間宮林蔵

    間宮林蔵は、安永9年(1780年)、茨城県の伊奈町(現在つくばみらい市)に生まれました。ある時、伊奈町で、利根川東遷のための堰(せき)の工事が行われます。それを見に行った林蔵は、その工事の責任者であった幕臣の村上島之允(むらかみ しまのじょう)の目に止まり、雇われることとなりました。その後、村上島之允は、寛政10年(1798年)に奥羽や寛政11年(1799年)に蝦夷へ出かけ、測量や植林を行います。その時も林蔵は同行し、同時に測量技術を学びました。寛政12年(1800年)の事です。函館にいた林蔵に運命的な出会いがありました。師の村上島之允を訪ねてきた伊能忠敬に会う機会を得たのです。最先端の測量機器を持ち、自分たちより遥かに高度な観測技術を持った忠敬の教えを請い、入門を許されます。これが、忠敬と林蔵の最初の繋がりでした。


    シャナ事件


    その後、幕府の下役人となった林蔵は、国後(クナシリ)や択捉(エトロフ)島などに派遣されます。そして、択捉島の紗那(シャナ)にあった幕府の会所に函館奉行の役人として駐留していた文化4年4月23日(1807年)に事件は発生します。幕府から通商を断られ、腹を立てたロシア軍が幕府の会所に攻め入ってきたのです。この時、林蔵は徹底抗戦を申し出るのですが、上級役人から圧倒的な火力の違いを理由に聞き入れられず、撤退を余儀なくされてしまいます。後に紗那の会所を放棄した罪で、関係者が処罰されます。ただ幸いなことに、林蔵は徹底抗戦を主張したことが認められ、不問に付されました。


    譲り受けた羅針盤


    その後、林蔵に樺太を探索する可能性が出てきます。ロシアの脅威が有り、かつ未開の民族しかいず、かつ厳しい気候の樺太行きは、大層危険な旅なので、身分が低く、測量のことを知っている林蔵はうってつけでした。しかし、林蔵は、未知の世界を探索するためには正確な羅針盤が必要なのに、自分は簡単なものしか持っていない、これでは危険な旅を乗り越えることが難しいと考えます。そこで、林蔵は知人を通して、忠敬より羅針盤を譲り受けようとします。既にその頃、忠敬は、第5次の測量を終え、地図製作において、その名を幕閣の間に轟かせている頃でした。忠敬が使っている杖先羅針という羅針盤は、江戸の細工師の大野弥三郎に依頼して精巧に作られた非常に高価なものでしたが、5両しか林蔵は準備できませんでした。しかし、忠敬は快く譲ったようです。しかも1つでは、測量時の正確さ比較できないためと考えてか、2つも譲ったとのことです。きっと林蔵は、大変驚き、感激したことでしょう。


    樺太探検


    東韃地方紀行
    東韃地方紀行より

    当時は、樺太(からふと、現在のサハリン)が半島なのか陸なのかは、世界中の謎とされていました。林蔵は、文化5年(1808年)、松田伝十郎(まつだでんじゅうろう)とともに幕府の命で探検に出発します。ところが調査が難航し、その年は目的地まで辿りつけませんでした。翌文化6年(1809年)に、林蔵は再度の探索を申し入れ、叶えられます。そして、今度は単独で、海峡を越え大陸まで行き、樺太が島であることを発見しました。これが後にシーボルトから「間宮海峡」と名付けれた世紀の大発見でした。そう言えば、忠敬が杖先羅針とよばれるものを手にした銅像が多いのに対し、林蔵は鉄鎖(測量する為のメジャー、鉄で出来ていた為、精度は高いが非常に重かった。)を持っている銅像が多いです。林蔵の探検家としての力強さを表しているようです。


    伊能忠敬へ再入門


    文化8年(1811年)、江戸に戻り、樺太探検について書かれた「東韃地方紀行」、「北夷分界余話」や地図を幕府に提出し、高い評価を得ます。そして、ちょうどその頃、忠敬も第7次の測量の吸収の旅から江戸へ帰って来ていました。林蔵は忠敬の深川黒江町の家を訪ねます。そして、大歓迎された林蔵は、忠敬に教えを請います。そして、その後、忠敬が8次の測量の旅に出るまでの半年間、様々な技術を習い、最先端の観測器具まで譲り受けます。さらに、忠敬の家に足繁く通ううちに、私事を相談しあう仲までになったと言われています。こうして、忠敬に再入門した林蔵は、最先端の技術や観測器具だけでなく、忠敬との間に友情にも似た信頼をも手に入れることが出来ました。


    蝦夷地を踏破


    林蔵は、文化11年(1814年)、忠敬に代わり、蝦夷地(北海道)の海岸部の測量に出発します。林蔵に健脚についていくのは、かなり過酷な旅だったようで、随行者が途中で離脱したりしたようです。林蔵は、アイヌの助けを借り、どうにか測量を続け、文化13年(1816年)、旅を終えます。そして文化14年(1817年)、地図を完成した後、江戸に帰り、忠敬の家を訪ねます。ところが、忠敬は労咳に伏せっていました。ただ、林蔵が作成した蝦夷の地図を見た忠敬は非常に喜び、日本全図に加えるよう弟子たちへ指示を出します。林蔵は、そのまま、忠敬の家に逗留し、忠敬を見守ります。しかし、一向に回復せず、翌年の文化14年4月13日(1817年)、忠敬はついに帰らぬ人となってしまいます。伊能忠敬死後、林蔵は、文政元年~3年(1817~1820年)にかけ、今度は、蝦夷地の内陸部を測量します。そして、先に調査した海岸部と合わせ「蝦夷全図」として地図を完成させ、幕府へ提出します。翌年の文政4年(1821年)、伊能忠敬の弟子たちが、この「蝦夷全図」と合わせ「大日本沿海輿地全図」を完成させます。世界的に見ても非常に精度の高い日本地図がこうして誕生したのです。


    その後の林蔵


    間宮海峡
    間宮海峡

    その後の林蔵は、幕府の隠密として、密輸を始め、様々な探索を行います。また、機会があればどこかでとは思いますが、とてもここでは書ききれません。大きな仕事を成した林蔵でしたが、忠敬と異なり、隠密という立場もあり、どちらかというと陰の存在でした。そして、天保15年2月26日(1844年)、亡くなります。ただ、シーボルトが発表した「ニッポン」により林蔵は、世界的に知られるようになります。そしてヨーロッパの間に「間宮海峡」とともに彼の名前は広がっていきました。


    マグネシアの石


    紀元前7世紀頃、小アジアの西部(現トルコ共和国西部) にマグネシアという町がありました。そこでは磁性を帯びた不思議な石が産出され、人々はその石のことを「マグネシアの石」と呼んでいました。その後、2000年近くを経て、中国を経てヨーロッパで羅針盤と呼ばれた方位磁石に形を変えます。そして、遠くて日本まで到達します。この羅針盤は、日本の様々な者に引き継がれ、憑りつかれたように日本中を測定してまわりました。こうして、私たちの住む日本という国は、その正しい形を人々へ表していったのです。


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