• 江戸を学び、江戸で遊ぼう

    紀元前7世紀頃、小アジアの西部(現トルコ共和国西部) にマグネシアという町がありました。 そこでは磁性を帯びた不思議な石が産出され、 人々はその石のことを「マグネシアの石」と呼んでいました。 その後、2000年近くを経て、ヨーロッパでは、 その石を羅針盤(コンパス)として使用するようになり、 遠く日本にも伝来され、地図製作に使われるようになりました。 これは、人工衛星も飛行機もなかった時代に、知力と体力、 そしてこの「マグネシアの石」を使って、 日本地図の製作に挑んだものたちの物語です。



    幕府はどうやって日本地図を作ったか?


    徳川家康
    徳川家康

    江戸時代、幕府による日本地図の作り方は、各地から国絵図(くにえず)を集め、それを繋ぎ合わせる方法でした。元となる国絵図は、主に慶長、正保、元禄、天保の4回に渡って作成指示が出され、集められています。

    まず、徳川家康が征夷大将軍に任じられて2年後の慶長10年9月(1605年)に、全国の諸大名の領地や石高の調査を命じます。国を統べる者としては、すべての国の位置やポテンシャルを掌握する必要があったのでしょう。この時収集された国絵図を元にして作成した日本地図が、国会図書館所蔵の「慶長日本図」と呼ばれるものだと言われています。

     

    元禄国絵図(常陸)
    元禄国絵図(常陸)

    徳川3代将軍の家光は、寛永10年(1633年)に、諸国へ視察を派遣し、国絵図を提出させます。この時も日本地図を編纂するのですが、先に紹介した国会図書館所蔵の日本地図は、実はこの寛永期に収集されて国絵図をもとにし、寛永15年に作成されたものだという説が最近では有力になっています。

    また、家光が在職していた時代(1623-1651年)の正保元年12月(1645年)にも、再度、国絵図の提出を諸大名に求めています。この時は、縮尺の統一(6寸1里)を図りました。これにより、繋ぎ合わせた結果は、より正確になったようです。この日本地図は、徳川4代将軍の家綱の時代の承応頃(1652-1655年)に完成されたと言われています。

    次の収集は、元禄10年4月(1697年)のことです。徳川5代将軍の綱吉の時代です。そして元禄15年、井上正岑・狩野良信により日本地図が編纂されました。


    新しい日本地図に怒って暴れた?将軍


    徳川吉宗
    徳川吉宗

    ところが、徳川8代将軍吉宗の時代に、この地図が問題となります。もともと吉宗は後世、科学おたくと呼ばれるほどの新しもの好きでした。天文学にも精通し、江戸城の吹上お庭に天文台を構え、日夜自ら観測したほどでした。そんな吉宗でしたので、一番最新で精度も高くあるべき元禄の日本地図が、一世代前の承応のものより、劣っているということは許せないことでした。そもそも地図というものは、国を統べる将軍としてしっかり管理すべしという意識もあったのだと思います。吉宗は、享保2年(1717年)、勘定奉行大久保忠位を責任者とし、佐渡奉行北条氏如に対して新たな日本地図の編纂を命じます。ところが一向に進展しません。吉宗は、こんな時に一番頼りとしていた人物がいました。稀代の数学者建部賢弘(たけべ かたひろ)です。建部賢弘とは、元々は関孝和に師事した数学者です。世界に先駆け円周率を41桁まで計算したことで、後世でも知られています。また、測量術に関しても大変明るかったと聞きます。腹心の部下でも有り、著名な数学者だったこの賢弘に、吉宗は、何か方策がないかと相談します。日本地図の作成方法は、諸大名から提出された国絵図を繋ぎ合わせて作っておりましたので、その繋ぎ方が悪いのではという結論に達します。そして、その解決策として、望視交会法という方法が考えられました。


    望視交会法とは


    望視交会法とは、国境で目標になりやすい山(見当山)など203の拠点を決め、各地からの方角と距離を測り、それを元に国絵図を繋ぎ合わせる方法でした。吉宗が発案したと伝えられています。建部も感心して同意します。幕府は各大名に命じ、望視結果を報告させました。そして、ついに享保日本地図が完成します。大きなパズルが将軍によって、解かれた瞬間でした。暴れん坊将軍の面目躍如といったところです。ここでも、方位磁石は非常に活躍したことでしょう。こうして、今までにないレベルの日本地図が完成します。享保8年(1723年)のことでした。遠い時間、遠い距離を経て、ここでもマグネシアの石がチカラを発揮したのです。

    享保日本図
    享保日本図

     その後の日本地図


    天保国絵図(常陸)
    天保国絵図(常陸)

    その後、天保期に再度、国絵図は収集され、天保9年(1838年)に整備を終えます。先に挙げた元禄時代の国絵図を同じ常陸の国で並べてみました。如何でしょうか?ただ、幕府は、この時収集した国絵図を元に日本地図を編纂しませんでした。以降、国絵図を元に日本地図が作成されることはありませんでした。なぜなら、伊能忠敬や間宮林蔵が登場し、全く新しい形の日本地図が出来上がったからです。そして、ここでもマグネシアの石は大活躍します。ただ、この話は長くなるので、別の機会にしたいと思います。


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