• 江戸を学び、江戸で遊ぼう

    広重 名所江戸百景「深川洲崎十万坪」
    広重 名所江戸百景「深川洲崎十万坪」

    中世や近世のヨーロッパは、ゴミや排泄物を窓から投げるなど、非常に衛生観念が低かったことで知られています。それでは、その頃、世界でも有数の都市だった江戸ではゴミはどのように処分されていたのでしょうか?


    江戸のゴミはどう処分されたか


    広重 江戸百景「深川州崎十万坪」
    広重 江戸百景「深川州崎十万坪」(出典:ウィキメディア・コモンズ )

    江戸初期は、ヨーロッパと同じように、そのまま空き地などに捨てられていました。ただ、段々と人口密度が高くなってくると、次のように変わってきました。まず、各長屋では、芥溜(ごみため)と呼ばれた穴を掘って周りを仕切り板で囲った場所にゴミを溜めておきます。そして、芥溜がいっぱいになると、町内の大芥溜と呼ばれたゴミの集積場に運びます。そこからは幕府から許可を受けた専門の業者が、芥船で運び、永代島(後には越中島に)まで運んでいました。そして、これらのゴミは、浚渫などで得た泥と共に、埋め立てに使われていました。広重の深川洲崎十万坪という浮世絵がありますが、これも埋め立てたものだというから驚きです。

    また、永代島や越中島まで行かずに、途中で不法投棄する悪質な業者もいた為、後には指定された場所まで運んでいるか監視する芥改役(ごみあらためやく)なんて役もあったとのことです。


    なぜ、江戸は進んでいたのか


    江戸という場所は、その8割ほどの面積に武士が住んでおり、残りの2割ほどの土地に、人口の半分いたと言われる町人が住んでいました。今のように高層化されていませんので、かなり密集していたと思われます。そんな中で、こうでもしないと、直ぐにゴミで溢れた町になってしまっていたのでしょう。ヨーロッパほど土地が広く無かったのも手伝いしっかりしたシステムを作っています。


    現在との違い


    また、ゴミの内容は、現在とはちょっと違っていました。当然、プラスティックなどのゴミは無く、生ゴミとその他の燃えないゴミ、陶器などが中心だったようです。しかも、当時の人は、徹底的に使い尽くすことをしていましたので、極端に量は少なかったようです。集められたゴミは、生ゴミとそれ以外に分別され、生ゴミは肥料に、その他のゴミは埋め立てに使われたとの事です。ここでも立派な循環型社会が成り立っていたのです。


    特集「江戸のリサイクル
    第1回:江戸のリサイクル1…こんな昔に再生紙
    第2回:江戸のリサイクル2…灰買いとは
    第3回:江戸のリサイクル3…ゴミの行方
    第4回:江戸のリサイクル4…江戸の町は化学工場
    第5回:江戸のリサイクル5…修理屋
    第6回:江戸のリサイクル6(最終回)…回収業者



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