• 江戸を学び、江戸で遊ぼう

    幕末の少し手前の時代のことです。さまざまなからくりを発明し、驚きと共にその印象を強く人々に残していった者が筑波に現れます。今回は、「からくり伊賀七」と呼ばれた飯塚 伊賀七(いいづか いがしち)の話です。


    風土が生んだ才人たち


    宝暦12年(1762年)に、常陸国筑波郡新町村(現在の茨城県つくば市谷田部)にて、飯塚家16代目として、非常に裕福な名主の家に生まれました。何故かこの近辺、同時代に3人の優れた才能を持った人物を輩出しています。農業、商業共に栄えた風土で、江戸からも近くさまざまな情報が入り易かったためか、日本地図を作った伊能忠敬、樺太探検の間宮林蔵、そしてこの飯塚伊賀七とほぼ同時期に登場し、活躍しています。


    不思議なソロバン


    寛政(1789年)の始め頃、家督を継いだ伊賀七は、村の諸問題、特に飢饉対策などで奔走し、多忙を極める毎日だったようです。ただ、そんな状況でも、合間を縫って算術や蘭学の勉強に勤しんでいたようです。特にソロバンを使った計算は得意だったようで、こんなエピソードがあります。ある日、川に打ち込まれた杭(くい)が、どうしても抜けず、村人たちが困っていました。そこに伊賀七が通りかかります。すると懐から不思議な形をしたソロバンを取り出して計算し、杭の抜き方を村人に教えます。伊賀七の言う通りにしたところ、たちどころに杭が抜けたと伝えられています。この時、使っていたソロバンですが、寛永通宝を珠(たま)にした小型の物で、それが、なんと9組1セットになったものだったと言われています。つまり、9つの異なる計算を1つのソロバンで1度にできるようになっていたのです。かなり、大きな物らしいので、本当に持ち歩いていたかは、定かではありませんが、、、


    からくり人形


    伊賀七の才能が開花するのは、40才後半になってからでした。元々、からくりの類が好きだったもうですが、ある時、彼は斜め向かいの酒屋までお使いに行かせるからくり人形を作ろうと考えます。人形に酒瓶を持たせると、酒屋まで行き、店の主人が酒瓶に酒を入れて持たせると、自動的に伊賀七の家へ帰るような仕掛けだったようです。酒屋まで、距離はほんの3m弱だったそうですが、村人からは、かなりびっくりされたようです。「酒買い人形」と呼ばれ、やがて藩にも知れるところになります。伊賀七は、他にも、客の前まで茶碗を運び、客が茶碗を取ると止まり、飲み終わった茶碗を載せるとまた帰って行くようにできていた「茶くみ女」も作って、人々を驚かせます。伊賀七の家に行ったら人形たちに出迎えられたと言われていますので、さぞや客人たちはびっくりしたことでしょう。いや、むしろ気味が悪く思っていたかも知れませんね。
    ※伊賀七が30才代の寛政8年(1796年)に土佐の細川頼直(ほそかわ よりなお)が「機巧図彙(からくりずい)」という書物を出しています。そこには、「茶くみ女」というほぼ同じようなからくり人形を紹介していますので、伊賀七の発明というわけではなく、まねをして製作したものと考えられます。


    細川頼直著「機巧図彙」
    細川頼直著「機巧図彙」

    時計から作られた農耕具


    伊賀七は多数の農業機械を製作しています。天保4年(1833年)頃、打穀機や自動製粉・精米機を作成しています。この自動製粉・精米機は、時計から着想を得て製作されました。(伊賀七は巨大な和時計も制作しています。)その頃の時計は、綱に吊るした重錘(じゅうすい)を歯車に巻き付け、その落下する力でゆっくり制御しながら時刻を刻みます。同じような構造で、歯車を回転させ、その力で、製粉と同時に精米を行なう構造を考え製作したのです。伊賀七は、その他にも糸繰り機など、数多くの農工具を作ったとされています。


    鳥人伊賀七


    伊賀七は大きな鳥のような翼を数枚重ね、ペダルを踏むと羽ばく飛行機を作ったと言われております。また、近隣での飛行実験では飽き足らず、筑波山から谷田部までの約20kmを飛ぼうとして「飛行願」なるものを藩主に提出しましたが、「人心を惑わす」などの理由で許可は下りず、処罰されたとも言われております。何れにせよ、実現することはなかったとされます。但し、ペダルを踏む構造で自転車を作り、近隣を乗り回したとも伝えられています。近隣の人はさぞやびっくりしたでしょうね。
    ※一時代前のの天明5年(1785年)に備前国岡山で浮田幸吉(うきた こうきち)が飛行実験を行なっています、伊賀七も挑戦してみたかったのでしょう。


    五角堂と多宝造鐘楼堂


    伊賀七が設計した建造物で有名なのは、五角堂(ごかくどう)と多宝造鐘楼堂があります。五角堂は、現在の飯塚家の残るその名の通り、五角形の建物です。この中に自身の発明の脱穀機や和時計が納めれれていたとされています。また、多宝造鐘楼堂は、現在の千葉県柏市の布施弁財天にあります。文化15年(1818年)に建造され、土台は八角形、塔身は円筒、屋根は四角形という珍しい構造をしていました。複雑な設計で、大工による工事は難航し、完成までに2年もかかったとされています。このように建造物でも通常は考えられない設計をしています。伊賀七らしいですね。


    谷田部に過ぎたるものあり


    伊賀七は、非常に精度の高い谷田部の地図も作成するなど地図作成にも通じていました。おのずと同時代の伊能忠敬や間宮林蔵とも親交があったとされています。多岐に渡り、才能を発揮した伊賀七でしたが、天保7年(1836年)の暮れに亡くなります。74才のことでした。「谷田部に過ぎたるもの三つあり 不動並木に 広瀬周度 飯塚伊賀七」と呼ばれ谷田部藩の優れた文化を代表する人物でした。今でも、この伊賀七のDNAは受け継がれ、つくば市は現在でも日本を代表するロボットの研究、開発拠点として「ロボットのまち つくば」として世界的にも有名な町となっています。


     


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