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    伊勢暦「天保壬寅元暦」
    伊勢暦「天保壬寅元暦」

    江戸時代、人生の全てを賭けて星を読み、 日本独自の暦作成に果敢に挑んだ男たちがいました。今日は、高橋至時(たかはし よしとき)の遺志を継いだ景保(かげやす)と景佑(かげすけ)の兄弟の話です。


    高橋景保


    高橋至時には、5人の子供達ががいました。その中でも、長男の景保と次男の景佑は、父と同じ天文の道を目指していました。
    景保は、天明5年(1785年)、大阪で生まれました。そして、父至時が天文方就任の際に、伴って江戸に出てきます。昌平坂学問書に通い、その成績は非常に優秀だったと伝えられています。その後、文化元年(1804年)に父至時が亡くなった後、跡を継いで江戸幕府天文方になりました。
    しかし、父の至時とは異なり、天文学以外の様々な仕事を担うこととなります。まず、伊能忠敬の日本全国の測量を支援します。そして、忠敬の没後も、彼の実測をもとに「大日本沿海輿地全図」を完成させています。また、その後、大きな比重となったものは、外国文書の翻訳でした。もともとは父の後を継いで、「ラランデ暦書」の翻訳を進めるために、オランダ語の翻訳環境を整えていました。しかし、この頃から頻繁に外国の船が訪れ、干渉が多くなってきました。そこで、幕府は、政治的に必要な文書の翻訳をその環境が整っていた景保のところでやるように命じるようになってきたのです。景保は、ケンペルの「日本誌」を翻訳を始め、輸入された様々な文書の翻訳に携わることとなります。そして、文化8年(1811年)には、蛮書和解御用の主管となり、さらに文化11年(1814年)には書物奉行兼天文方筆頭に就任し、ますます多忙を極めるようになります。こうして、景保は、天文以外の道を歩まざるを得なくなってしまいます。こうした中、事件は発生しました。


    シーボルト事件


    シーボルト
    シーボルト

    オランダ商館の医師のシーボルトは、医師としてだけでなく、日本の風物や地理などを広く調査していました。そして、その頃、書物奉行だった景保とも非常に親しくしていました。景保は、シーボルトが「世界周遊記(クルーゼンシュテルン著)」という書物を持っていることを知り、なんとか譲ってもらえないかと交渉していました。そこで、シーボルトは、引き換えに伊能忠孝の「大日本沿海輿地全図」の写しを交換すること条件を出しました。本来であれば、地図は日本にとっての重大機密であるのですが、景保は快諾してしまいます。その後、シーボルトは、他にも日本の北方の植物の情報を集めようと思いたち、その地方を探検したことのある間宮林蔵に標本と贈り物の交換をお願いする手紙を出します。ところが林蔵は、国禁に触れるということで、開封せずにそのまま上司に提出してしまいます。このことが契機となり、景保が国禁を破っていることが明るみに出てしまいます。文政11年(1828年)9月、シーボルトが帰国する時の所持品検査でこの日本地図が見つかってしまいますと、景保は、文政11年(1828年)10月10日に伝馬町牢屋敷に投獄されます。そして、翌文政12年(1829年)2月16日に獄死してしまいます。45歳のことでした。こうして、天文方としての高橋家は途絶えてしまいます。これが、かの有名な「シーボルト事件」です。


    渋川景佑


    高橋景保には、景佑という弟がいました。優秀過ぎて、天文方以外の数多くの任を課せられていた兄の景保の代わりに、暦学研究を担っていたのがこの景佑です。景佑は、高橋至時の次男として、天明7年(1787年)に大阪で生まれました。兄とともに、江戸に下り、父至時の死の翌年の文化2年(1805年)から翌年にかけては、伊能忠敬の測量にも参加しています。
    文化5年(1808年)、景佑が22歳のことでした。彼の運命が大きく変わります。なんと渋川家の養子となったのです。渋川家は、日本初の暦、貞享暦を作ったあの渋川春海(はるみ)を受け継ぐ家系です。ただ、春海以降、目立った業績は無く、長きに渡り低迷していました。こうした中、景佑を養子として受け入れることになったのです。景佑は、兄が多忙を極める中、文政元年(1818年)から、父の至時がやり残していたジェローム・ラランドの『ラランデ暦書』の翻訳事業にあたるようになります。その航程は、順風満帆のように思えました。そして、文政9年(1826年)に「新巧暦書」としてまとまります。ところが、文政11年(1828年)に、前述のシーボルト事件が発生してしまうのです。結局、この事件の影響で、「新巧暦書」が上呈されたのは、天保7年(1836年)とその後、10年も後のことでした。シーボルト事件では、高橋家が者が連座する中、景佑は、どうにか責を免れます。自分の兄の起こした事件ですので、その後ろめたさは、想像以上のものだったと思います。そして、このような状況に耐え、「新巧暦書」を完成できたことも想像以上のものだったと思います。


    遂に完成…天保暦


    その後、渋川景佑は、前述の「新巧暦書」など研究した西洋の天文学を元にした理論を元に天保暦を完成させます。正式には「天保壬寅元暦(てんぽうじんいんげんれき)」と言い、天保15年(弘化元年、1844年)から施行されました。日本の最後の太陰太陽暦です。江戸時代、渋川春海の貞享暦によって幕が明けられた国産の暦は、渋川景佑の天保暦により、幕が閉じられました。そこには、血の繋がりではなく、知の繋がりという星を継ぐものたちの熱い情熱があったのだと思います。
    この暦は、その後、明治6年(1873年)に明治政府により、太陽暦へ改暦されるまで使われ続けました。また、長く続いた天文方や天文台も明治維新により解体され、今はその姿を見ることは出来ません。


    2033年、11月はジャンプする。


    最後の国産の暦の天保暦は、現在使われているグレゴリオ暦よりも太陽年の誤差が少ない正確なものでした。但し、1点だけ解決しない箇所がありました。旧暦の8月の再来月は、通常は10月、閏月でも9月ですが、2033年は11月にジャンプします。これは、天保暦が出来た当初からの問題点として予見されていました。旧暦を管理するものが誰もいない現在において、これを修正する継承者は出てくるのでしょうか?


     


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