戦国時代の康正3年(1457年)に太田道灌により、最初の江戸城は、築かれました。しかし、太田道灌が殺害された後は、上杉家の隠居城として使われたり、北条家の支配下に置かれたりしましたが、殆ど使われず、荒れ果てていたとされます。
秀吉によって関八州を与えられた徳川家康が、天正18年8月朔日(1590年8月30日)に入城した後、最初の城の整備が行われました。しかし、この時は応急処置的なものだったとのことです。本格的には、慶長11年(1606年)から開始されます。築城の名手とよばれた藤堂高虎が基本設計をしたと言われています。また、この頃は、既に二代将軍の秀忠の時代でしたが、殆ど家康が口を出し、城作りを決定していたようです。(※2)
その後、江戸時代の間、江戸城の増改築は、繰り返し行われています。それは、譜代の家臣や大名の普請(※1)による増改築と火災による立て直しの2つの理由がありました。二代将軍秀忠の改築、三代将軍家光の改築や外郭工事などにより、寛永14年(1637年)に江戸城の普請は一旦完成します。
※1:普請とは
元々は禅宗のお寺で、普く(あねく)請う(こう)と、上下に関係なくすべての僧が作務労役に従事することを言いました。転じて建築に用いられるようになりました。
※2:初期江戸城の最古級絵図見つかる 松江市
http://mainichi.jp/articles/20170208/k00/00e/040/333000c
江戸城は、表(幕府の政務および将軍の御座所である中奥)と奥(大奥)があった本丸、そして東側に二の丸、三の丸。南側に西の丸と吹上、北西に北の丸を配していました。本丸の広さは表が4688坪、奥が6318坪で合計すると東京ドーム0.8個分の広さがあったという事です。
また、敷地の広さは、幕末時だと内郭と呼ばれる部分だけでも30万6760坪(東京ドーム21.7個分)も有り、日本国内で最大の城でした。
江戸城は、何度も焼失しています。寛永16年(1639年)、明暦3年(1657年)、天保15年(1844年)、安政6年(1859年)に焼失し、その都度再建されています。本当に江戸の町は、火事が多かった事が伺い知れます。広い場所に作られた江戸城であっても火事にはかなわなかったのですね。また、文久3年(1863年)に本丸が焼失した時は、幕末の混乱期で、再建される事はありませんでした。そして、西の丸に機能を移したまま明治維新を迎えたのでした。
1868年4月、江戸城は明治新政府軍に明け渡され、10月に東京城と改名されました。そして、翌1869年、東京遷都により皇城となります。ただ、この時使われていた西の丸も1873年に、またもや火事で消失します。しかし、1888年に建て直され、その後の1948年、皇居と改称されました。この西の丸と吹上御庭の一帯が、現在の皇居、宮内庁関連の施設となっています。
また、本の丸、二の丸や三の丸のあった跡地は、現在、皇居東御苑として一般公開されています。