天明2年(1782年)から足掛け7年間もの間、 飢饉が発生しました。学生時代、 日本史の授業で聞いた事があると思いますが、いわゆる「 天明の大飢饉」です。何十万人もの死者を出したと言われ、 近世では最大規模のものとされています。長期間にわたる飢饉は、 地方の農村を疲弊させました。そして、 都市部に人々は無宿人として雪崩れ込んで来ました。その頃、 政治、 経済の中心となっていた江戸へも当然大量に流入してして来ました 。ところが、これらの人たちの殆どは、 農業以外に仕事をやった事はなく、 江戸に出て来てもなかなか職に付けるわけではありませんでした。 結局、 盗みなどの犯罪に手を付けるしか術がない者も多かったようです。 そして、天明7年5月(1787年)には、江戸の町で、 千軒もの米屋と8千軒もの商家の打ちこわしが起こり、 全く統制が効かない状態となってしまいました。そして、 この動きは全国に波及して行きました。
一方、当時、重商主義政策をしいていた老中の田沼意次が失脚し、 老中筆頭に任命された松平定信は、 その年の7月から改革を開始します。「寛政の改革」です。ただ、 この方、当時を代表する文人で狂歌師だった大田南畝より、「 白河の清きに魚のすみかねて もとの濁りの田沼こひしき」 などと歌われるほど窮屈な政治だったようですが、、、
そして同年の9月の事、鬼平こと長谷川平蔵(本名は宣以( のぶため))を火付盗賊改方(ひつけとうぞくあらためかた) に任命します。平蔵が42歳の頃だという事です。 火付盗賊改方とは、 放火や強盗などの重犯罪を取り締まる役職です。 非武装の町奉行とは異なり、武装し、 犯罪を取り締まっていました。平蔵は、 さまざまな凶悪事件を次々と解決していき、悪人からは鬼の平蔵( 鬼平)として恐れられるようになりました。
ただ、そうした中で、平蔵は犯罪の根源である貧困、 またその原因である職がない事を解決しなければ、 犯罪をなくしていく事が出来ないと考えるようになりました。 そして、幕府に「人足寄場(にんそくよせば)」 の建設を進言します。「人足寄場」とは、 犯罪者や無宿人に手に職をつけさせるために教育訓練する今で言う 職業訓練所です。今の石川島にありました。 今だと当たり前の事ですが、300年もの前に建設し、 最初はその運営までやってのけた鬼平に企画力、 実行力はほとほと感心します。
こんな逸話もあります。当時、 石川島人足寄場の建設費が不足していた為、 平蔵は松平定信に増額を訴えました。ところが、 これ以上は費用の増額は出来ないと頑なに断られます。その時、 平蔵はビックリするような方法で費用を捻出します。
ここで問題です。
いったい、 平蔵はどのような方法で費用を作ったのでしょうか?
平蔵を火付盗賊改方に登用した松平定信は、 実は平蔵のことを嫌っていたようです。自伝の中で「 長谷川なにがし」と名前さえも出さず、平蔵の事を「山師」 だと言っています。清廉潔白を信条とする定信は、平蔵の事がかなり疎ましかったようです。つまり、 先ほどの答えですが、なんと2番が正解です。それにしても、 幕府のお金を相場につぎ込むなどということは、 当時でも許されるはずもありません。本当に腹の座った人物だったのか、 賭け事によほど自信があったのか当人でなければわかりませんが、何れにせよ「人足寄場」にすべてをかけていただと思います。平蔵は通常の任期は2年と言われる激務の火付け盗賊改方を8年も務めた後、亡くなりました。寛政7年5月の事でした。