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    大名行列のアウトソーシング

    広重 東海道五十三次「日本橋」
    広重 東海道五十三次「日本橋」(出典:ウィキメディア・コモンズ)パブリック・ドメイン

    江戸時代は、後期になればなるほど、財政の運営に苦しむ藩が多くなってきました。でも対面を重んじる大名の風潮に変わりはなく、いろいろな点で見栄を張らざるを得ませんでした。

    大名行列がその最たるものです。江戸時代、ほとんどの大名は参勤交代で、参府(さんぷ、江戸へ来ること)と入部(にゅうぶ、国許へ帰ること)を1年ごとに繰り返していました。そして、その道中は、大名行列と呼ばれるような大人数の編成で移動します。この大名行列は、加賀藩のような凄まじい石高をもった大大名だと、その数は2000人にもおよび、通るだけでも大変な時間を費やしたと思います。


    大名の格により、大名行列は、その員数や構成が決まっていました。ただ、「最低限これくらいはしなさい」という決まりでしたので、その決まりを超えて、自分の藩を誇示するために段々と派手なものになっていきました。武士のサガみたいなものですね。

    しかし、長い道中ずっと、派手な大名行列をするまでのお金はありませんでしたし、誰も見ていないのに派手にやるのは意味がないので、出国の時や宿場、関所を通過する時、江戸入りの時だけ、従者を雇い、人数を揃えていました。従者は、それを専門で請け負う「六組飛脚仲間」(むくみひきゃくなかま)というところから雇いました。今の派遣業やアウトソーサーに当たりますね。この時代も必要な時だけ人を雇うというアウトソーシングの基本形なようなことが行われていたのですね。


    江戸時代の派遣業 人宿とは


    参勤交代により、殿様が江戸にいる時といない時が、1年ごとに変わります。殿様が居る時は、当然その配下の人数も増えますので、それらを世話する者の人数も膨れ上がります。従って、ここでも1年ごとに奉公人を雇ったり止めたりを繰り返す必要がありました。

    幕府の直接の配下である旗本江戸城に登城する際は、その位により、従者を何人従えなければならないと決まりがありました。常に雇っておく余裕がない旗本は、登城する時など必要な時だけ人を雇っていました。これらの奉公人は、口入屋(くちいれや)または人宿(ひとやど)と呼ばれた業者が斡旋(あっせん)していました。こんなに昔から必要な時だけ人を雇う形が発達し、仲介する役割を担う業務がいたのですね。


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