• 江戸を学び、江戸で遊ぼう

    江戸時代、人生の全てを賭けて星を読み、 日本独自の暦作成に果敢に挑んだ男たちがいました。 今日は、しばらく停滞していた天文方のやり方に風穴を開け、新しい暦に挑戦した高橋至時の話です。


    浅草天文台
    浅草天文台

    至時、20歳の出会い


    高橋至時(よしとき)は、明和元年11月30日(1764年12月22日)に大阪の定番同心の家に生まれました。幼い頃から算学を得意としていて、日夜勉学に勤しんでいたそうです。安永8年(1778年)、15歳で、父の跡を継ぎます。そして、20歳過ぎで、運命の人の志勉(シメ)と結婚しました。(このシメという女性は、後々の至時の成長や出世を大きく担っていたと言われています。)また、23歳になると、算学への興味が高じて、「列子図解(れっしずかい)」という本を出すほどになります。


    天文への道


    翌年の24歳の時です。至時は人生の中で最も大きな選択をします。当時、大坂で非常に有名だった天文学の麻田剛立(あさだごうりゅう)に入門したのです。また、この時、生涯の盟友となる間富重(はざま とみしげ)とも同塾となります。この富重という人物も大坂の豪商で、後に職人に様々な観測器械を作らせ、天文暦学の発達と寛政暦作成に大きく貢献した凄い人物です。このような環境を得た至時は、まさに水を得た魚のように、猛烈な勢いで暦学の勉強を始めました。至時は驚くようなスピードで、着実に実力を付け、いつしか剛立、至時、富重の3人は師弟の関係を超えて、共同研究者のような形となっていたとも言われています。次のようなエピソードがあります。ある日、至時の家が火事で全焼しました。翌日、心配した剛立や重富は、その焼け跡に赴きます。ところが、出迎えた至時とこの2人は、いつしか焼け跡の前で、熱く暦学の議論を行っていたと言われています。


    至時、31歳の別れ


    柿至時の妻シメとの間には、5人の子供がいました。下級武士だったので、かなりの薄給で、子供たちを養いながら、勉学のお金を捻出するのはかなり大変だったようです。しかし、至時の家には大きな柿の木があり、毎年たわわに実るので、何某かの収入になっていました。ところが、たびたび近所の子供が盗みに来るのです。なんとかしなければと考えた至時は、毎日屋根に登って寝ずの番をしていました。ところが、ある日のことでした。至時が家に帰ってみると、柿の木がありません。妻のシメに尋ねると、切ってしまったと言います。理由を問いただすと、「旦那様は、いずれ大成する方です。そんな方が、柿のために勉学の時間を割くようなことがあってはなりません。」などと、答えたと言われています。また、シメは、学問や観測道具のためにお金を捻出するなど、至時の苦しい時を支え、非常に賢妻だったと言われています。内助の功が大きな力となり、至時はさらに暦学を極めていきます。そして、当時、最も進んでいて、難解だと言われていた「暦象考成後編」をマスターします。やがて、至時の優秀さは幕府の目に止まります。そして、寛政7年(1795年)、重富とともに改暦を行うため、江戸に呼ばれ、幕府天文方と出世していきます。ところが、シメは無理がたたったのか、大坂にて病に倒れ、亡き人となってしまいます。シメが29歳、至時が31歳のことでした。その後、至時は2度と結婚することはなく、生涯独身を通しました。


    軌道は楕円


    北斎「鳥越の不二」浅草天文台
    北斎「鳥越の不二」浅草天文台

    当時の日本では、天体の軌道は円であると考えられていました。ところが、剛立、富重、至時たち3人が読み解いた「暦象考成後編」では、太陽と月の運動をケプラーが唱えた楕円軌道で説明していました。楕円軌道で説明すると、今まで解けなかった暦学上の問題が解けます。多分、読み解いた時の3人の感動は、どんよりした空が一挙に晴れ渡るような、それは計り知れないものがあったのだと想像に難くありません。至時は、このケプラーの理論と剛立の考えた消長法(時代とともに天体の公転周期が変わるという 考え方)を使って、新しい暦を作ります。そして、寛政8年10月(1796年)いよいよ総仕上げとして、京に登り、土門家で観測と改暦作業に当たります。翌年の10月、この暦は奏上され、寛政10年(1798年)より、施行されます。寛政暦(かんせいれき)と名付けられました。こうして、およそ80年前に徳川吉宗の命により始まり、幕府にとっての悲願だった改暦がようやく実現されたのです。至時が35歳の時、最愛の妻のシメと死に別れてから、4年の歳月が流れていました。


    伊能忠敬との出会い


    伊能忠敬 肖像画
    伊能忠敬 肖像画

    先ほどの話とは、前後しますが、寛政7年(1795年)、 新しい暦を作るために、至時が江戸に呼ばれた31歳の時でした。 伊能忠敬(いのうただたか)という人物が訪ねてきます。忠敬は、 下総の佐原村(現在の茨城県)の隠居した裕福な名主で、 50歳でした。忠敬は、天文学に強い興味があり、 年下のどうしても至時に弟子入りしたいというのです。最終的に、 この忠敬、メキメキと実力をつけ、 至時からも推歩先生などと呼ばれるほど、 非常に親しい間柄になったようです。正確な経度の距離を測り、 地球の大きさを知りたいという忠敬に対し、 日本地図を作るという名目で幕府の許可を得てはどうかというアイ ディアを出したのも至時でした。また、 忠敬が途中でつまずきそうになった時もたびたび支援していたとの ことです。こうして、身分に関係なく、 知的好奇心が先に立つ考え方は、 若い頃師事した麻田剛立から受け継がれたものだったのかも知れま せん。


    至時、最後の時


    至時は、改暦の頃から結核を患っていました。たびたび臥せっていたようです。ただ、享和2年(1802年)に起きた日食では、寛政暦と15分のずれが生じしてしまいます。このことを至時は非常に悔しがりました。そして、享和3年(1803年)、ジェローム・ラランドが著した天文書「ラランデ暦書」を手に入れます。この本には、かつてその内容に驚嘆した「暦象考成後編」にも記されていなかった5惑星の運動について書かれていました。そして、熱心に研究を開始しました。ただ、それがたたり、半年後の文化元年(1804年)に死去しています。わずか41歳の時でした。


     忠敬、再び


    伊能忠敬は至時の死後も測量を続けます。そして、日本全国の測量事業を完了させました。忠敬はその後の文政元年(1818年)、地図完成作業の途中で亡くなります。忠敬は、遺言で師である至時のそばに葬ってほしいとの言葉を残しました。そのため、今も源空寺に行くと、至時と隣り合って墓石が置かれているのを見ることが出来ます。


     


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