江戸時代、人々を苦しめた疫病は、主に「天然痘」「はしか」「水疱瘡」の3つで、特に天然痘は、毎年のように流行し、人々の命を奪ってきました。また、幕末近くになると、西洋との接触も活発になってきたため、「コロリ(コレラ)」が猛威を振るった年が3回ほど発生しております。今回は、これらの病気にまつわる言い伝えやまじないなどに焦点をあてていこうと思います。
江戸時代を代表する女流作家、詩人でもあった只野真葛(ただの まくず)が「奥州波奈志」で以下のように紹介しています。
陸奥の国の七ヶ浜で文化年間に天然痘の大流行が発生しました。その時、疱瘡婆(ほうそうばば)と呼ばれた化け物が、人々を恐怖のどん底に陥れましたと伝えられております。疱瘡婆は、疱瘡で死んだ者の墓が掘り起し、次々と死体が食べていたのです。目撃者によると白髪の三メートル以上もある老婆とのことでした。
「奥州波奈志」
治療法が全くなかった時代、人々の間では、疱瘡神は赤い色を嫌うため、朱刷りの護符絵を身に着けておくことが流行しました。これは、天然痘の発疹が紫色から赤に変わると、回復に兆しということから、赤色を嫌うと信じられていたからです。
病魔退散にため、神輿を担ぎだしたりもしたようですが、今考えると返って逆効果だったのだろうと思われます。神通力を持つ天狗のうちわ変わりに、八つ手の葉を軒に吊り下げたり、お札を身に着けたりとしていたようです。
弘化3年(1846年)、肥後国(熊本県)の海で「アマビエ」という怪物が現れ、豊作の6年間の後、コレラが流行するという予言とともに、病気が流行したら、自分の姿を写して人々に見せるようにと言い残して消えたという伝承が残っています。
アマビエ
このアマビエ、もともとは、海彦(アマヒコ)の「コ」の字が書き写されている内に「エ」に変異したものという説もあります。そもそも、古代より日本は、海からは様々な物が伝来し、豊穣に繋がっていたが、同時に様々な厄災(主に伝染病)も入ってくるようになったので、こうしたことが、民族的な潜在意識の中に埋め込まれていたのかも知れません。
ただ、このアマビエ、よーく見ると、西洋のチフスに対峙する医者に姿に似ていないでしょうか?
実は、この辺りのイメージが伝わったのではないかと、私は考えています。如何でしょうか?