日本における疫病の最初の記録は、「続日本書紀」の天平7年(735年)の天然痘が最初とのことです。以降、幾度となく、人々を苦しめてきましたが、江戸時代になると、商人や武士の行き来が活発になったため、その被害の範囲や規模は、非常に大きなものとなっていきました。そのころ、人々を苦しめた疫病は、主に「天然痘」「はしか」「水疱瘡」の3つで、特に天然痘は、毎年のように流行し、人々の命を奪ってきました。また、幕末近くになると、西洋との接触も活発になってきたため、「コロリ(コレラ)」が猛威を振るった年が3回ほど発生しております。今回は、江戸時代の人々が、どのようにして、こうした流行病と闘ってきたかに焦点をあてていきたいと思います。
天然痘、はしか、水疱瘡は、江戸時代、「御役三病」とよばれ、一生に一度しか、かからないが、死亡率が高いため、非常に恐れられていました。
御役三病の中で、特に恐れられ、たびたび流行し、人々の命を奪ったものが、天然痘です。天然痘は、感染すると、発熱や頭痛、嘔吐などの症状とともに全身に発疹が現れます。仮に死に至らなくても、失明したり、痘痕が残ったりして人々を苦しめました。
中国では、かなり昔から、回復した患者の膿を感染前の人に接種し、軽く発症させる人痘法(じんとうほう)が存在していました。中国の医学書でそれを知った緒方春朔(おがた しゅんさく)という医者は、寛政8年(1896年)、患者のかさぶたの粉末を鼻から吸引させる方法を発案しました。そして、千人以上の子供たちに施し全て成功させたと言われております。しかし、幕府の漢方医による批判で、結局は、浸透しませんでした。
一方、日本で牛痘法(ぎゅうとうほう)が広まったのは、あのシーボルトによる実演に端を発すると言われています。それを聞き及んだ、佐賀藩医の楢林宋建(ならばやし そうけん)が、藩主に進言し、牛痘を取り寄せました。そして、嘉永2年(1849年)に実子に行い、成功させたと伝えられています。その後、緒方洪庵の協力も得て、全国に広まっていきますが、ここでも江戸の漢方医の妨害にあったようです。しかし、その効果が、そんな妨害を跳ね除け、安政5年(1858年)に神田お玉が池に「種痘所」を設立し、その2年後には幕府の直営施設となり、どんどんと広めていったとのことです。
牛痘法を人々に広めるための引き札(宣伝用のチラシのようなもの)もありました。
牛痘接種引き札
1980年、世界保健機構(WHO)は、天然痘の根絶宣言を行いました。人類が地球上から撲滅出来た唯一の感染症です。従って、日本でも、1976年以降、ワクチン予防としての種痘も行われなくなっています。ちなみに私は、1961年生まれなので、小学生の頃に種痘を受けた後が左肩に残っています。
インドの風土病だったコレラは、イギリスがインドを植民地支配し、各国と貿易を拡大した19世紀から全世界に広がったと言われています。
日本でも、文政5年(1822年)、中国(清、しん)経由で九州に上陸し、西日本は甚大な被害を被ったと言われています。
二回目の流行は、安政5年(1858年)6月のことです。長崎に入港したペリー艦隊のミシシッピー号から伝染したコレラが、大阪、京都、尾張などを経て、7月末には江戸へも蔓延し、9月までに全国で5万人以上が病死したと言われております。その後、死者は増え続け、江戸の死者は、最終的には10万人とも30万人とも伝えられています。当時の江戸の人口は約100万人と言われていましたので、仮に10万にとしても10%の方が亡くなったことになりますので、それは想像を絶する被害だったのだと思います。コレラは、感染すると急激な下痢に襲われ、脱水症状がつづいて意識不明となり、数時間で死亡する伝染病で、江戸の人々はあまりに早く絶命することから「コロリ」と呼び始めました。ちなみに「東海道五拾参次」や「名所江戸百景」で著名な浮世絵師の広重もこの時の「コロリ」でなくなっています。
三回目は、文久2年(1862年)で、江戸時代の流行では最も多くの犠牲者を出したと言われています。
この疫病、魚から伝染するというデマが流れ、漁師や魚屋が失業するという事態にまで発展しました。
埋葬の棺桶や火葬が間に合わず、やむなく品川沖に薦に包んで流したとも伝えられています。
「安政午秋頃痢流行記」
◆ 御役三病とコロリ
◆ 病魔の伝承、まじない…そして、アマビエ考察
◆ 團十郎襲名の意味