• 江戸を学び、江戸で遊ぼう
    北斎 冨嶽三十六景「江都駿河町」
    北斎 冨嶽三十六景「江都駿河町」(出典:ウィキメディア・コモンズ )

    「越後屋、おぬしも悪よのー」なんてセリフ、時代劇の常套句ですが、今日の話は、その越後屋とは全く関係ありません。三井越後屋の事です。このお店は日本橋を南北に横切る日本橋通りにありました。そうです今の三越の前身です。元々、三井家は、小間物店、呉服店などを営む商家でした。そして、中興の祖といわれる三井高利(たかとし)は、延宝元年(1673年)に、江戸本町一丁目で「越後屋三井八郎右衛門」という呉服屋を創業しました。その後、商いを拡大し、天和3年(1683年)には、駿河町へ移転しました。これが日本橋の三越の始まりです。そして、さまざまな工夫で、「芝居千両、魚河岸千両、越後屋千両」と、1日千両を売り上げる芝居や魚河岸と肩を並べる規模へ商いを拡大していきました。以下、越後屋の驚くべき商法に関して紹介していきましょう。


    ブランディング


    三井越後屋のマーク
    三井越後屋のマーク

    現代社会だとあたりまえにやっているブランディングを積極的に行っていました。三井越後屋のマークを使ったブランディングです。丸に井桁、さらにその中に三が入ったマークでした。丸と井桁と三は、それぞれ天地人を表しているとの事です。暖簾(のれん)や看板、そして風呂敷、傘など、客の目に留まるあらゆるところに使っていました。このマークは、誠実な販売とともに段々と浸透していき、特に幕府の御用達となってからは、信頼の証となっていきました。


    チラシと傘を使ったマーケティング


    広重 江戸百景「駿河町」
    広重 江戸百景「駿河町」(出典:ウィキメディア・コモンズ )

    三井越後屋が日本橋に越してきた時に、江戸中に引き札を配りました。引札とは今で言うチラシの事です。チラシを使った宣伝の始まりです。その引き札には、「正札現金掛値なし」と書かれていて、定価、現金決済の販売方法で爆発的に売り上げを上げることができました。また、三井越後屋のマークが入った傘を大量に準備しておき、急な雨が降ると誰にでも傘を貸していました。「江戸中を越後屋にして虹が吹き」という川柳の通り、雨が降ると三井越後屋のマークの入った傘により、江戸中でコマーシャルが繰り広げられました。無料で傘を貸す代わりに宣伝してもらうって、民放のテレビのコマーシャルのような発想ですね。


    「店前現銀売り」「仕立て売り」「切り売り」などの販売方法


    三井越後屋の以前の販売方法は、「屋敷売り」と呼ばれた訪問販売が中心でした。また、支払も後払いの掛け払いがほとんどでした。越後屋は、「店前現銀売り(たなさきげんきんうり)」と言って、対面販売と定価での現金取引を始めました。対面販売では、お客さんにお店に来てもらい現物を見せながら販売する方式を採用しました。また、現金取引にすることにより、掛け売りの取りはぐれのリスク分として上乗せしていた分を差し引く事出来ました。そして、商品ごとに定価を設け販売しました。この定価で販売する方法は世界初だとも言われています。これらの2つの施策が江戸の市民に受け、越後屋は、急激に販売を伸ばしていきました。

    また、今でいうイージーオーダーの「仕立て売り」や、一反でなく必要な分だけ売る「切り売り」など、それまでの常識を覆すような販売方法を確立する事により、江戸の町民に大受けとなり、ますます商いの規模を拡大していきました。


    三井越後屋
    三井越後屋(出典:ウィキメディア・コモンズ )

    買宿(かいやど)とは


    地方での仕入でも工夫がありました。地域ごとに買宿と呼ばれた宿を定め、越後屋の者が泊まるときには購入金や購入した絹の保管を行う事が出来るようにしていました。また、越後屋の者が行けない時でも、仕入れが滞らないように、買い付けを代行させていました。


    以上、どうでしたでしょうか?今と比べると全くと言って良いほど情報もない時代に、これほどまでの販売施策を行っていたとは、恐るべきです。

    三井高利は、上記で紹介したようなさまざまな施策を実行しました。ただ、あまりの商才に、周りの同業者から疎まれて、店に放火されるとか、デマを流されるとか酷い目にもあったようです。冒頭で述べた「越後屋おぬしも悪よのー」ではなくて、その逆ですね。しかし、決して屈せず、次々と新しいアイディアを実行してきました。現代社会でも難しい施策に次々と挑戦していった三井高利は日本が誇る商人だったと思います。


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