• 江戸を学び、江戸で遊ぼう

    長い間続いていた決まりごとを破っていくのは並大抵のことではありません。今回は、200年ほども続いた決まりごとを、自分の才覚で打ち破っただけでなく、次々と人々を驚かせる発明した鉄砲鍛冶、国友一貫斎の話です。


    彦根事件


    安永7年(1778年)、近江国の国友村(現在の滋賀県長浜市国友町)で、幕府の御用鉄砲鍛冶職で、年寄脇(としよりわき)の家に生まれました。若い頃、父親から鉄砲製作技術を学びます。また、金物細工職人として有名だった辻源右衛門に師事し、繊細で精巧な技術を身につけたと言われています。そして、17歳の頃、国友家の9代目当主として家督を継ぎました。御用鉄砲鍛冶の職人は、当時の身分制度からいうと士農工商の工に当たるのですが、苗字帯刀が許され、武士に次ぐ身分とされていました。また、役職も年寄、年寄脇、若年寄、平鍛冶などに分けられ、代々の世襲となっていました。年寄は4名いて、2名づつ交代で江戸詰めしていて、能力のあるなしに関わらず、職人を統べていました。一貫斎の若い頃は、既に戦国時代から遠く離れていましたので、特に形骸化が進んでいたようです。そんな中、事件が起きます。文化8年(1811年)、一貫斎は彦根藩の御用係となります。そして、直ぐにその卓越した技術が認められ、年寄を飛び越して、依頼を受けるようになってきます。その事を不服とした御用鉄砲鍛冶の年寄たちは、反発しますが、彦根藩から逆に出入り禁止となってしまいました。逆上した年寄たちは江戸表へ訴えます。これが、後に「彦根事件」と呼ばれた事件で、江戸町奉行所に一貫斎と年寄2名が呼ばれ吟味されることになります。この裁判は非常に長引きました。足掛け6年に渡って行われ、結局、証拠不十分で、一貫斎は無罪を勝ち取りました。そして、この裁判に勝った後、一貫斎は、国友村の鉄砲鍛冶たちを束ねるようになり、実力により報償を変えるなど、その能力と努力が報われる制度に変えていったとのことです。


    発明家への第一歩


    平田篤胤
    平田篤胤

    江戸での裁判は、一貫際にとっては苦痛でしたでしょうが、悪いことばかりではありませんでした。いや、むしろ一貫斎を狭い職人の世界から飛躍させる大きなきっかけとなりました。好奇心旺盛な一貫斎は、さまざまな江戸の知識人と知り合いになります。キッカケになった人物は、山田大円という著名な眼科医です。どうやら、江戸に出る前からの旧知の間柄で、無二の親友だったと言われています。一貫斎は、彼を通じて、かの有名な平田篤胤とも親交を温めることが出来ました。深夜や徹夜の論談を度々行うほどだったとも言われています。篤胤は、神道を中心に添えた国学者ですが、西洋学にも精通しており、その見識は多岐に渡っていました。こうして、後に様々な発明をする一貫斎の素地が出来上がっていったのかも知れません。一貫斎は、国友村にいる頃から、大円より西洋から伝わった風砲(ふうほう、今の空気銃)の図面を入手していました。色々と試作を重ねていた折、江戸に来ることになったのですが、その大円の紹介で、その頃、江戸幕府の若年寄だった京極高備(きょうごく たかまさ)より、オランダ製の風砲を借り受ける機会を得ます。ところが、この風砲は故障しており、修理出来る者がいない状況でした。そんな中、一貫斎は、1ヶ月ほどをかけ、修理してしまいます。ただ、その性能はオモチャレベルだったことから、一貫斎の職人としての探究心に火をつけます。京極高備より、注文を受け、文政元年の11月に、独自の空気銃の開発に着手することとなりました。こうして、一貫斎は、発明家としての第一歩を歩み始めたのです。


    気砲の完成とその後


    一貫斎は、製作に着手にわずか4ヶ月足らずで、オリジナルの空気銃完成させます。そして、気砲と名付けます。文政2年の3月のことでした。この気砲は、オランダ製の風砲と比較すると数十倍の威力だったと言われています。そして、その評判はたちまち広がり、水戸の徳川斉脩(なりのぶ)らをはじめ様々なところから注文が殺到しました。こうして、一貫斎の名前は、天下に轟くこととなりました。一貫斎は、「気砲記」という本も著しました。また、平田篤胤は、文政6年に「気砲図説序」という文を書いて一貫斎に贈ります。こうして、一貫斎の名前はさらに世に広まることとなりました。一貫斎は、その後、鋼製弩弓(鋼とバネを使った弓)、神鏡(光を当てると像が浮かび上がる鏡)、懐中筆(万年筆のような筆)、玉燈(ランプのような照明器具)などなど多くの発明、製作を行います。また、回転式の井戸掘り機(ドリルのようなもの)を考案したりします。気砲は、鉄砲鍛冶としての延長線上にありましたが、常識に捕らわれず、好奇心旺盛な一貫斎は、今までの常識や慣習を打破し、多岐に渡る才能を発揮していったのです。


    国友村を救った反射望遠鏡…小惑星一貫斎


    反射望遠鏡
    反射望遠鏡

    反射望遠鏡は、凹面鏡を使って星の光を集めるタイプの望遠鏡です。屈折式望遠鏡と異なり、色収差が発生しないこと、大口径を得やすいこと、中心像が極めてシャープなことなどがメリットとしてありますが、光軸がずれやすいなどの欠点もあります。一貫斎は、文政2年頃(1820年頃)、公家の成瀬正寿が所有していたイギリス製の反射望遠鏡を見る機会がありました。この時すぐには製作しなかったのですが、55歳になった十数年の後の天保3年(1831年)に望遠鏡の製作に着手します。そして1年ほどで試作品を作り、天保5年以降は、月や木星を始め、土星や金星、太陽黒点などの観測を行いながら調整を行い精度を上げていきます。そして、日月星業試留(わざためしどめ)」として書き留めていきます。この望遠鏡は、当時の天文学界の第一人者といわれた間重新(はざま しげよし)から、外国製以上の精度があると高く評価されました。こうして、一貫斎は、趣味の道で穏やかな余生を送るはずでした。ところ、国友村で大事件が起こります。いわゆる、天保の飢饉が、彼の故郷の国友村にも影響を与え始めました。著しい天候不順が続き、姉川の氾濫などもあり、コメの不作が続きます。職人中心の国友村はもともと米は買うしか術が無いのですが、村人たちは高騰した米を買えず、餓死の危険にさらされたと言われています。天保7年(1836年)以降、一貫斎は村人たちのこうした窮状に対応するため、反射望遠鏡を加賀藩などのお金持ちの諸侯に売却しました。精魂込めて製作した大切な反射望遠鏡を売却したのですから、さぞかし断腸の思いだったのかと想像しますが、自分の仕事が世の中役に立ったと、逆に天に感謝したと言います。こうして、危機を乗り越えた一貫斎だったのですが、その後は、反射望遠鏡を再度製作することもなく、天保11年(1840)の暮れに亡くなりました。享年63歳でした。その後、国内で反射望遠鏡の製作が再開されるのは、1922年からだと言われており、彼が亡くなってから、実に80年以上もの歳月が流れ去っていました。そして、一貫斎が亡くなってから150年の年月が流れました。1991年、滋賀県犬上郡多賀町のダイニックアストロパーク天究館の杉江氏が、火星と木星の間に小惑星を発見します。彼は、郷土のこの偉人を称え、1998年、「国友一貫斎(6100 Kunitomoikkansai)と命名されました。


     


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