江戸時代、本来は門外不出のはずの発明の類を出版し、ベストセラーとなった「機巧図彙(からくりずい)」という本があります。そして、幕末から明治にかけての発明家たちに大きな影響して与えました。今回は、この書物の著者であり、からくり半蔵と呼ばれた細川半蔵頼直(以下、半蔵と表記)の話です。
半蔵は、土佐国長岡郡西野地村(現在の高知県南国市)で、土佐藩の郷士の家に生まれました。出生年は、元文5年(1740年)頃とも寛保元年(1741年)とも言われていますが、ハッキリしたことは解っていません。元禄13年(1770年)頃、半蔵は家督を継ぎます。そして、郷里の土佐の天文学者だった片岡直次郎(かたおか なおじろう)や儒学者の戸部原山(とべ げんざん)に師事し、天文学と儒学を学び始めます。天文学の師である片岡直次郎は,土佐高岡郡半山郷(現在の津野町)の自宅付近に 天文台を設け,日夜、天体観測を行なっていました。半蔵は、ここで天文学を学ぶだけでなく、その手先の器用さから、さまざまな観測機器の製作を始めます。安永8年(1779年)、儒学の師の戸部原山と 伊勢や和歌山、そして京都を歴訪する機会を得ます。また、天文学の師の片岡直次郎も安永元年(1772年)から、当時最も進んだ天文学者であった大坂の浅田剛立の門下生となっており、半蔵も合流することとなりました。この浅田剛立のもとには、天文学の分野で後に大きな足跡を残した高橋至時(たかはし よしとき)や間富重(はざま とみしげ)もいました。半蔵も優れた先輩や学友に囲まれ、切磋琢磨したのだと思います。そして、その成果は、天明2年(1782年)頃、「写天儀」製作という形で現れます。この「写天儀」は、現存していませんが、太陽や星の動きを表す天球儀と天体の位置を計測する渾天儀が合わさった複雑なものだったようです。土佐公にも献上されました。半蔵は、その他にも、万歩計を製作したり、西洋の時計を修理したりと、藩内や京都、大阪などで徐々にその名前が売れ始めていました。そして、「からくり半蔵」と呼ばれ、親しまれていました。
寛政3年(1791年) 、頼直は、一大決心をします。さらに天文学を極めようと、高知を出て、江戸に行くことに決めたのです。そして、関流の高名な和算家だった藤田貞資(ふじた さだすけ)に入門します。寛政6年(1794年)、そんな半蔵に、さらなる転機が訪れます。後に寛政の改暦と呼ばれた改暦作業を行う技術者が募られ、半蔵は、天文方暦作助手として参画することになりました。天文学に精通し、手先が非常に器用で、発明に長けていたことが、その理由のようです。そして、さまざまな天体観測器具を製作し、改暦という一大事業に貢献しました。半蔵の技術の高さを伝える有名な逸話があります。ある時、半蔵は、からくりの果たし合いを申し込まれます。相手方はネコのからくりに対して、半蔵が準備したのは、ネズミのからくりです。大方の予想に反して、ネズミのからくりがネコのからくりを食い殺してしまいます。本当にあったことかは疑わしいですが、まるで、現在のロボットコンテストか、キテレツ大百科の奇天烈斎のような話で面白い話ですね。
寛政8年(1796年)、半蔵は、寛政の改暦事業の完了を待たずに亡くなります。死因は、さまざまな説があります。公儀より禁止とされていた技術を公開してしまい責任を取らされたからだとか、半蔵の才能を妬んだライバルにより毒殺されたとか、不治の病にかかってしまったからだとかです。同年「機巧図彙」という本が出版されます。これは、時計やさまざまなからくり人形などの構造が図解されていて、日本の機械工学書ともいわれています。世界にも誇れるレベルの物でした。この時代、職人の技術は、秘伝とされていましたので、これを公にすることは、そういう意味でも画期的な出来事だったのです。お堅い技術書にも関わらず、ベストセラーとなり、江戸の人たちをさぞ驚かせたことでしょう。そして、その後の発明家たちに多大な影響を与えたのです。