人とは違う事が見え、人とは違う事を考え、人とは違う事をやる。それが発明家です。太平の世だった江戸時代でも、そんな発明家が生まれました。人々の間を疾風のように過ぎ去り、驚きと共にその印象を強く人々に残していった彼らの足跡を追います。
源内は、享保13年(1728年)、讃岐高松藩(香川県さぬき市)で、米倉番をしていた白石家の三男として生まれました。幼い頃から、人をあっと言わせるのが得意だったようで、12才の頃、「御神酒天神(おみきてんじん)」という御神酒を供えると顔が赤くなる天神様の掛け軸を作って、近隣の人たちを驚かせます。この評判は、藩にも届き、13才頃から藩医の元で本草学や儒学などを学び始めます。
寛延元年(1748年)、父の死により、家督を継ぎます。源内は、直ぐに頭角を現し、藩主の松平頼恭(まつだいら よりたか)に認められます。そして、宝暦2年(1752年)には、藩の命で、長崎に遊学させてもらい、オランダ語、医学などの蘭学を学びます。また、後に日本で初めて油絵を描くのですが、この頃、学んだとのことです。しかし、遊学が終わった翌年の宝暦3年、突然自身の病弱を理由に(本当はそんな事なかったようですが…)、妹に婿養子を取らせ、家督を譲ってしまいます。理由は、藩の役をやっていては、好きな事や勉強が一向に出来ない。そんなジレンマからだったようです。
宝暦6年3月(1756年)、源内は、大阪を経て江戸に行きます。そして、その翌年の宝暦7年(1757年)29才の時、田村藍水(らんすい)の元へ入門し、本草学を本格的に学び始めます。ここでも直ぐ頭角を現し、全国から薬品を中心に特産品を集めた物産展を開くことを発案します。源内は、長崎に留学した際に、さまざまな薬品が、非常に高い価額で取引されているのを見聞きしていました。金銀が海外に流出していく様を見て、「これではいけない。この日本でも全国を調査すれば、貴重な物資が見つかるかもしれない。そうすれば、輸入を止めることが出来る物も見つかるだろう。しかし、自分で一から探していては時間がかかり過ぎる。何とかならないだろうか?」と考え、物産展を開き、一挙に集めることを思いついたようです。そして遂に、湯島にて開催することとなります。この物産展は、その後も毎年開催され、宝暦9年(1759年)の3回目には源内の名前で主催するまでになりました。
江戸での評判を聞き及んだ高松藩の頼恭は、好待遇で、源内を再度呼び戻します。そして、相模湾や紀州海岸での貝の採集を命じます。源内に貝の採集とは?と疑問に思いますよね。そうです。源内はやはりそう思ったのでしょう。いくら好待遇でも、縛られることには我慢できないかったようで、宝暦11年(1761年)、再び辞職を願い出ます。そして、他の藩に仕官しないことを条件にどうにか許されます。 源内は、脱藩すると、すぐに行動に移ります。今までも4回に渡り、物産展を開いていたのですが、より大々的な規模での開催を目論見ます。まず、全国に取次所を設け、受付を容易にしました。そして江戸への配送は無料にします。また、返却も確実の行われるように確約しました。このような工夫で、第5回目の物産展は宝暦12年(1762年)に開催され、大成功を収めます。集まった薬品類の数は1300にも登ったと言われています。将に日本初の博覧会と呼んでも過言ではないレベルでした。さらに、源内は、物産展で集まった薬品類を研究し、その成果を全6巻の「物類品隲(ぶつるいひんしつ)」として発刊しました。こうして、本草学者として源内の名前は、全国に知れ渡るようになっていったのです。宝暦13年(1763年)7月、源内が35才のことでした。
本草学者として名を馳せた源内ですが、それだけでは留まりませんでした。「物類品隲」を発表したばかりの宝暦13年(1763年)11月、「根南志具佐(ねなしぐさ)」という滑稽本を風来山人という名前で発表します。当時人気だった俳優荻野八重桐が隅田川で舟遊び中に溺死したという事件から着想を得て、人気女形に惚れ込んだ地獄の閻魔大王が、冥界に拉致するための河童を現世に送り込むという、今でいうスラップスティックのような内容でした。源内は、さらに「風流志道軒伝(ふうりゅうしどうけんでん)」という滑稽本も立て続けに発刊し、江戸で大ヒットさせます。内容は、当時浅草で実在した講釈師の志道軒が、大人国や小人国を冒険する物語でした。なんだかガリバー旅行記みたいな話ですね(ガリバー旅行記は、1726年に初版が刊行されていますので、もしかしたら源内は読んでかも知れませんが…)。こうして、源内は、作家としても有名になっていきます。また、その後も明和7年(1770年)、源内が42才の時には、「神霊矢口渡(しんれいやぐちのわたし)」という人形浄瑠璃を福内鬼外(ふくち きがい)という名前で書き下ろし、上演されます。ここでも大人気となり、20年以上も後の寛政6年(1794年)にも、歌舞伎の舞台でも取り上げれるほどになります。
明和元年(1764年)、源内は、奥秩父山中の中津川で偶然、石綿を発見します。源内は国益のためにも鉱山開発は重要なものと考えていたようで、以後、武蔵川越藩の秋元凉朝の依頼もあり、鉱山経営の試みは晩年まで続きます。今でも、源内が設計し長く逗留した建物が「源内居」として残っているとことです。また、安永2年(1773年)には出羽秋田藩の佐竹義敦に招かれて鉱山開発の指導を行っています。しかし、これらの試みは予算との兼ね合いもあり、精錬がうまくいかず、失敗に終わってしまいます。但し、転んでもタダでは起きる源内ではありませんでした。石綿からは、火浣布を発明します。また、秋田藩の要請により鉱山開発の指導を行った。この折り、秋田藩士小野田直武と藩主・佐竹曙山に西洋画の技法を伝えました。
杉田玄白・前野良沢・中川淳庵らはオランダの解剖学書「ターヘル・アナトミア」を翻訳し、安永3年(1774年)「解体新書」として、須原屋より刊行します。しかしながら、この「解体新書」発刊にも源内は大きく寄与したことはあまり知られていません。解剖学書ですから、挿絵は非常に重要な部分です。ところが西洋式の絵が描けるものが、当時の日本にはいませんでした。そこで、既に杉田玄白が親友であった源内に相談したところ、秋田藩の鉱山開発時代に西洋画の技法を教えた小野田尚武を紹介したと言われています。小野田尚武は、西洋式の印影を用いた画法で、解体新書の挿絵を描き、その正確さで大きく寄与しました。また、当時の蘭学者の間でで源内は有名人でした。従って、解体新書の序文を源内により書かれています。源内は、本当に何でも出来る人だったのですね。玄白が源内について言った言葉でこんなものがあります。「生まれつき物の理を悟ることが早く、時代の風を読むことにも長けた才人である」と。
※源内は西洋画の手法だけでなく、浮世絵の発展にも大きく寄与したと言われています。当時の浮世絵はモノトーンでしたが、多色刷りを発案したのは、源内だと言われています。後年、鈴木春信は、源内がいなければ錦絵もなかったと言っています。
源内は、生涯、沢山の発明や製作を行っています。有名なのは、エレキテルですが、これは、発明ではなく、壊れていたものを修理しただけと言われていますが…。宝暦5年(1755年)27才の頃には、量程器を作っています。これは今でいう万歩計ですね。また、同じころ、藩の重臣木村季明の求めで磁針器(方位磁石)の作製も行っています。有名なのは、明和元年(1764年)に、中津川山中で発見した石綿を使って作った燃えない布の火浣布(かかんぷ)です。火浣布とは、中国南部の火山に住むとされる想像上の動物,火ねずみの毛で織り,よごれたとき火に投入れるとよごれがとれると伝えられる織物。「竹取物語」にも「火ねずみのかわごろも」として登場します。幕府に献上されていますが、伝説の織物を発明した源内の名前は改めて鳴り響いたのではと思います。 また、明和5年(1768年)40才の頃にはタルモメイトル(寒暖計)を製作しています。そして、安永5年(1776年)11月、48才の時、エレキテルの復元の成功です。世間からは、驚きを持って迎えられますが、医療器具として出資を期待していた富裕な藩や商人から全く相手にされず、源内の宛てが外れてしまいます。さらに、職人からエレキテルの製作方法を盗まれてしまいます。源内は、後に誤解から人を殺めてしまいますが、この痛い経験から疑い深くなってしまったのかも知れません。
※一説によると「竹とんぼ」を発明したのも源内だと言われています。なんだかドラえもんみたいで面白いですね。
安永8年11月(1779年)、源内が51才の時です。大工2人との共同で、ある家の改築を請け負うことになりました。夜、一緒に飲みながら話をしていると、懐に入れたはずの図面がないことに気づきます。源内は、すぐに詰め寄りますが、大工たちは、一切知らないと言いはります。激昂した源内はとうとう切り殺してしまいました。ところが、ふと冷静になって帯に手を入れると、そこに図面があり、全くの誤解だったことに気づきます。あれほどの天才の源内が、酔った勢いとは言え、勘違いから殺人を犯してしまったのです。源内は捕らえられ、小伝馬町の獄中で死んでしまいます。12月18日のことでした。本草学者として名を馳せ、数々の発明で人々を驚かせ、作家としても人々を熱狂の渦に巻き込み、様々な著名人に多大な影響を与えた江戸の巨人としては、非常にみじめな最期でした。亡骸は、友人たちにより浅草総泉寺に埋葬されました。その墓標には、こう刻まれております。「ああ非常の人。非常のことを好む。行ないこれ非常なり、なんぞ非常に死するや」これは、無二の親友、杉田玄白の言葉です。