• 江戸を学び、江戸で遊ぼう

    江戸時代、人生の全てを賭けて星を読み、 日本独自の暦作成に果敢に挑んだ男たちがいました。 今日は、改暦に力を注いだ将軍、「徳川吉宗」の物語です。


    徳川八代将軍 吉宗
    徳川八代将軍 吉宗

    天文オタクだった?吉宗


    享保元年(1716年)、吉宗は徳川八代将軍として就任しました。日本史でも習った通り「享保の改革」で有名ですね。米将軍とも呼ばれました。(暴れん坊将軍と呼ばれたのはテレビの中だけです。)米の価格統制などを基軸にした各種改革に邁進したことでこのようなアダ名がつきました。ただ、一方で西洋科学を積極的に取り入れようとしていたことはあまり知られていません。実は、天文学にも強い興味を示し、西洋の天文学を元にした改暦を模索していました。その執心ぶりは、江戸城内の吹上御庭に天文台まで設け、みずから日夜観測をするほどでした。


    吉宗とハルマゲドン


    話は変わりますが、吉宗の天文学好きから着想を得たと思われる「暴れん坊将軍」の伝説的なシナリオがあります。1999年に放送されたもので、9シーズン目の第19話「江戸壊滅の危機!すい星激突の恐怖」というタイトルの回です。吉宗が望遠鏡で天体観測していると、日に日に近づいて来る赤い彗星があります。吉宗は、心配になり、長崎から天文学者を呼んで尋ねると、今夜、日野宿の外れに落ち、2里四方が被害にあうと言われます。映画のハルマゲドンのような話ですね。一方、江戸の町には、彗星が落ちて来るという噂が流れ始めます。そして、彗星除けの蝋燭が流行り始めます。なんでも彗星が来る時にその蝋燭を点けると、災を免れるという事で、爆発的に売れ始めます。しかし、本当は蝋燭でなく、爆薬が仕掛けられていました。天狗党が、国家転覆を狙い、一斉に江戸の町を火の海にしようと暗躍していたのです。結局、吉宗は、その天狗党との戦いに終始してしまい、何ら手が打たれる事なく彗星は落ちてしまいます。ただ、日野の外れだったので被害は、ほぼありませんでしたという話です。それにしても凄い話を時代劇でやったのですね。


    改暦に大きく舵を切った吉宗


    話を戻します。吉宗が将軍の頃、使われていた暦は、30年以上も前に渋川春海により作られた貞享暦でした。西洋の天文学が高度に発展している事を知っていた吉宗は、この日本初の貞享暦には誤差があると考えていました。また、暦を統率するのは為政者として役目だと強く考えていました。結果、吉宗は改暦に向かって大きく舵を切ります。
    まず、吉宗は、享保5年(1720年)に禁書令の緩和を行います。そもそも当時は、書物の輸入を厳しく取り締まっていました。しかし、吉宗は、キリスト教に無関係な書物は許可することに変えてしまいます。そして「暦算全書」を輸入し、それを翻訳させました。この本は、中国の梅文鼎という学者が書いたものてす。西洋の知識も数多く取り入れた非常に高度な天文学の専門書でした。大坂の中根元圭(げんけい)という学者に翻訳させました。
    延享2年(1745年)、吉宗は息子の家重に将軍職を譲り、大御所となります。そして、改暦に向け、全力を注ぎ始めます。そして、延享3年(1746年)、神田佐久間町に天文台を設けます。また、寛延2年(1749年)、江戸で天文学を教えていた西川正休(まさよし)と天文方の渋川則休(のりよし)に改暦を命じます。改暦のためには、京都の土御門家(つちみかどけ)を通じて天皇の勅を受ける必要があります。従って、この2人は、寛延3年(1750年)、宝暦元年(1751年)と2度に渡り、京都の土御門泰邦(やすくに)と折衝するため上京します。これで、やっと、改暦に向けての準備が整いました。それにしても時の将軍でさえ、改暦というものはこんなに大変だったのですね。しかし、吉宗が改暦に携われたのはここまででした。


    吉宗の死去とその後の混乱期


    宝暦暦
    宝暦暦(宝暦甲戌元暦)

    宝暦元年(1751年)、吉宗は改暦の結果を知ることなく、死去してしまいます。この影響か、土御門泰邦は、西川正休を失脚させます。まあ、残念なことに、西川正休もあの名門の生まれの渋川則休も、どちらも実はそれほど天文学を極めていたわけではなかったということもあったようですが・・・そして、逆に自らが作成した暦を奏上します。結局、この暦が、宝暦5年(1755年)、「宝暦甲戌元暦(ほうりゃくこうじゅつげんれき)」として採用されることとなります。ところが、この暦は非常に不正確なものでした。わずか9年後には、日食の予報に失敗し、以降、再び暦は混乱期に入ってしまいます。吉宗が生きていたら、さぞ無念だったのでしょうね。
    このように結果から見るとと、吉宗の改暦への一連の動きはすべて無駄だったかのように見えます。しかし、そんなことはありませんでした。特に吉宗の禁書令の緩和により、さまざまな天文学書の輸入が可能となり、それはやがて民間にまで、西洋の天文学を浸透させ、日本の天文学史上にとって、大きな新しい流れとなっていくのです。


     


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